この記事では、小説版「秒速5センチメートル」の感想と考察をまとめる。
映画と小説で共通する部分の考察は「映画版の考察」として記事にしている。
メインストーリーの考察が知りたい方は、こちらがオススメだ。
私が小説を読んだ正直な感想。
「あれ?映画に比べて思っていたよりも、貴樹や結末に共感できない?」
小説では、一部が映画と違う表現にチューニングされている。
映画に対して「プラスした内容」「変わった描写」が存在するのだ。
要するに、小説版の方が悲しすぎない。
私はそれが必ずしも良いとは思わなかった。
また、小説の貴樹は「仕事はできるが、女の扱いはクズ」だった。
映画ではあれほど共感していた貴樹にも、正直ツッコミを入れたくなった。
新海誠監督は映画のメッセージがうまく伝わらなかったことで、「視聴者にどこまで説明するか」で悩んだのではと思う。
小説版「秒速5センチメートル」を読んだ感想や映画との違いを語る。
動画で観たい人はこちらからどうぞ。
映画版を掘り下げる資料として、小説版は最高
この記事の冒頭に貼った映画版「秒速5センチメートル」の考察を書いていて、多くの気付きがあった。
約2万文字あって、作品の中に深く潜ることができた。
これは「私が頑張った」とかではなく、小説が映画を知るための最高の資料だったから。
小説を読むことで誰でも映画の最深部の情報にアクセスできるようになる。
(小説に全部が書いているわけではない)
「秒速5センチメートル」は恐ろしいほどに繊細な描写が重なってクライマックスへと向かっていく。
作品の中で展開されている情報の量が多く、それが表現として飽和していない。
新海誠監督という人物は、現代の最前線で活躍する一流作家を2〜3人束にして、やっと太刀打ちできるかどうかの才能じゃないかと思わされた。
天才が妥協せずに作った世界を味わい尽くすためには、小説は絶対に読むべき。
「明里の手紙」は号泣させられる
新海誠監督は、映画本編で明里に悲しみを語らせない。
それは「貴樹の過去の恋の話」とするために必要なことだった。
しかし、明里も貴樹と同じかそれ以上に苦しんでいた。
小説では「貴樹への手紙」を通じて明里の気持ちを知ることができる。
この情報があれば、心無い視聴者から「明里だけ幸せになりやがって」と言われることはなかったのだ。
以下に手紙の内容を抜粋する。
- 貴樹を待っている間に手紙を書いている
- 小学生の頃、転校先に貴樹がいてくれてよかった
- 転校なんてしたくなかったし、貴樹と一緒に大人になりたかった
- 栃木と東京はまだしも、鹿児島は遠すぎる
- 自信はないが、私達はひとりでやっていけるようにしなければならない
- この先どんなに遠くに行っても、貴樹のことがずっと好き
この手紙を読んだときは、号泣してしまった。
不覚にも、おっさんがしてはいけない泣き方だった。
明里が抱えていた思いを知りたい方は、小説は必読である。
小説は映画ほど絶望が強くない。希望がある。
映画版「秒速5センチメートル」を考察した結果、特に第3話は悲しみで溢れていた。
これは考察した私の性格が「ネガティブ・暗い」という理由もある。
だが、実際に映画を観た人たちの感想も、「悲しすぎる」という内容が多い。
つまり、映画版を「悲しい」「鬱だ」と見なすのは、正しいことだと考えている。
だが、製作者サイドの狙いは違ったようだ。
ここまで「悲しすぎる」と受け取られるとは思っていなかったらしい。
いくつかの描写が「希望のある内容」に変わっている。
- 結婚して、岩船駅を出る明里が「過去の思い出を前向きに振り返る」「電車で移動する貴樹に救いの言葉をかけてあげたいと感じている」
- 貴樹が水野理沙との別れをちゃんと悲しみ、後悔する
この「前向きな心情だったように描写を変更する」のは、確かに心が安らぐ。
それでも、小説の変更はあまり好きではない。
第3話に救いを入れてしまうと、映画での劇的な表現がなかったことになる。
映像が表現する内容と小説の心理描写が矛盾するのだ。
中途半端に「ここはそんなに暗い部分じゃない」としまうと、物語の起伏が浅くなってしまう。
傷付いた人の心を慰めるとき、「救いがないことがむしろ救いになる」ことがある。
「登場人物が悲しみを代弁してくれた」と感じることができる。
映画を観た人の声に耳を傾けた結果、「過剰な変更をしてしまった」のではと感じる。
新海誠監督のようなほんとうの天才は、我々のような凡人の声は聴かなくてよい。
我を貫いて欲しい。
小説版では、貴樹に共感できなくなる
「秒速5センチメートル」は、貴樹と明里、花苗と同じような恋をした人を慰めるための物語である。
だが、小説を読むことで「貴樹に共感できない」「貴樹という存在が遠ざかる」と感じてしまった。
順番に話す。
仕事での貴樹は優秀で、全然クズじゃない
映画を観た感想で、「貴樹はクズ」と言われることがある。
映画の描写を見ていると、貴樹にあまり良い印象を受けないかもしれない。
- 部屋が汚い
- 暗い部屋でテレビを見ながらビールを飲んでいる
- システムエンジニアで、ブラック企業に勤めていそう
- はっきりしない理由で仕事をやめた
この一覧を見ると映画の貴樹も「やっぱりクズじゃねぇか!」と思った。
しかし、あえてクズな部分を見せてくれることで、観る人が共感できる面もある。
他の作品の話をするが、カイジが酒を飲んで悪さをしたり、「彼女、お借りします」の和也の性欲がやたら強いのもこれに該当する。
仕事の辛さに対して「現実ってつらいよなぁ」と思う人もいるだろう。
貴樹を下に見ることで、「どうしようもない奴だなぁ」と親しみを感じる人もいるかもしれない。
だが、小説に書かれている貴樹は優秀である。
仕事を辞めてもしばらく困らないだけの貯金があった。
システムエンジニアとして帰宅は終電間際になることも多く、長時間労働だったのは事実。
しかし、貴樹はパソコンやプログラムに対し、世界の秘密に触れるような魅力を感じていた。
そしてその世界の秘密には、もうずっと昔に過ぎ去ってしまった夢や想い、好きだった場所や放課後に聴いた音楽、特別だった女の子との叶えることのできなかった約束、そういったものに繋がる通路が隠されているようなーはっきりとした理由はないのだけれど、そんな気がした。
「小説版 秒速5センチメートル」より引用
「小学校の頃に、明里と求めた知識」「太陽系の奥へ飛び立つロケット」と同じように、貴樹にとって仕事をすることには喜びがあった。
裏に明里の影があるとはいえ、仕事は貴樹が好きでやっていたことである。
「仕事をやめる」と考え出すまでは、プログラミングは苦痛ではなかった。
「能力とスキルがあって、お金持ち」
それが小説に描かれた遠野貴樹の姿だ。
ポンコツな私は、優秀な貴樹には共感できないかもしれない。
女性の扱い方について、小説の貴樹はクズだった
映画の第3話。
貴樹は、彼女であった水野理沙から「心は1センチも近づけませんでした」というメールを受け取る。
これを見ると「まだ明里が好きなんだね…しょうがないね…」と思う部分がいくらかある。
もちろん、水野理沙にとってはひどい仕打ちだが。
この作品が好きな人は、貴樹が「明里を思い続ける姿」にいくらか同情しただろう。
だが、小説の貴樹の姿を見ると全く同情できなくなる。
嫉妬で女性を振り回すが、「無自覚に」本気で相手を好きになってはいない。
一般の感覚とかけ離れた劇的な恋もした。
水野理紗と別れた後、「なぜ俺は、誰かをすこしだけでも幸せに近づけることができなかったんだろう」と嘆く。
「これは流石に自己憐憫すぎるぞ」と思う。
映画の貴樹が気にならない私でも、そう思う。
小説の貴樹が付き合った3人の女性たち
貴樹は、水野理沙を含めて3人の女性と付き合っている。
付き合った人数が多いわけではないが、「水野理沙」「塾のアシスタントのアルバイトをしていた坂口さん」はとても美人であるようだ。
1人目に付き合ったのは、大学生協の弁当売りのアルバイトを通じて知り合った女性。
その関係は「知らない男が彼女に告白をした」ことで終わる。
はっきりとは書かれていないが、彼女が「貴樹ではなく知らない男性を選んだ」ということだろう。
「遠野くんはそれほどあたしを好きじゃないんだよ。」と言っており、映画の水野理沙と似た状態だったと思われる。
2人目に付き合ったのは、塾講師のアシスタントのアルバイトを通じて知り合った坂口さん。
抜きんでて美しくスタイルが良い女性で、周囲にも気さくに応じる人。
だが、貴樹だけは「必要がある時以外は決して自分から人に話しかけない」等の孤独さや歪みに気付いていた。
坂口さんは、数学講師と付き合いながら貴樹と関係を持っていた。
貴樹はそれを知っていたようで、激しい恋だったようだ。
あれほど急激に誰かを好きになってしまったことも、同じ相手をあれほど深く憎んでしまったことも、初めてだった。
「小説版 秒速5センチメートル」より引用
お互いにどうすればもっと愛してもらえるのかだけを必死に考える二カ月があり、どうすれば相手を決定的に傷付けることができるのかだけを考えた一カ月があった。
信じられないような幸せと恍惚の日々の後に、誰にも相談できないような酷い日々が続いた。
3人目に付き合ったのは、映画に登場する水野理紗である。
貴樹は心から水野理紗のことが好きだと感じていた。
水野理紗が「電話で会社の後輩と楽しく会話した」ことに対して、貴樹は「蔑まれている」と感じ、激しい嫉妬をした場面がある。
これ以降、ふたりのやり取りは自然に途絶えていった。
映画を観た私は、水野理沙を傷付けてしまったことで「貴樹が明里のことをずっと好き」だと思っていた。
だが、貴樹本人の目線からすると「明里には固執していない」つもりでいる。
鹿児島を離れた後は、貴樹は女性と付き合うことに特に遠慮はない。
小説版の貴樹は、女性を振り回す
心のどこかでは本命を求めていながら、付き合う女性が他の男と会話すると嫉妬してしまう。
これは失う悲しみを刷り込まれた人間の行動を言い当てた描写であると思う。
しかし、貴樹の女性への嫉妬は直視するには辛すぎた。
これだけ女性を振り回しておきながら、貴樹は「なぜ俺は、誰かをすこしだけでも幸せに近づけることができなかったんだろう」とひとり嘆く。
女性との関係に関しては、小説の貴樹は「クズ」と言わざるを得ない。
(私は映画では「クズ」とまでは思わない)
また、貴樹は異性と関係を進展させるのが早かったようだ。
子供の頃の貴樹は言う。
「明里のそのぬくもりを、その魂を、どこに持っていけばいいか、どのように扱えばいいのか、それが僕には分からなかった」
しかし、大人の貴樹は言う。
誰かを好きになる時、急にそうなりすぎてしまっていたような気がする。
「小説版 秒速5センチメートル」より引用
そしてあっという間に食い尽くし、その人を失ってしまうのだ。
そういうことを、もう繰り返したくなかった。
これは水野理紗と貴樹が仲良くなり始めたとき、お互いに好意があっても関係を進めようとしなかった場面での言葉だ。
明里を喪失した反動で、貴樹はすぐに愛の証拠を求めるようになってしまった。
映画の貴樹は、ブラック企業っぽい会社に勤務していて仕事を辞めたが、明里を好きであるが故の行動には芯が通っている人物だった。
小説の貴樹は、優秀で貯金もあって仕事を辞めても困らない状況だったが、女性との関係の持ち方については共感しにくい。
小説の貴樹には可愛げがない…
映画のラストが難しすぎて、小説は説明を加えた
私は映画のラストシーンはハッピーエンド、前向きな幕引きだと思っている。
以下の3点がその理由だ。
- 踏切は心の変化のモチーフであった
- 振り返る貴樹が笑顔である
- 振り返った明里が、貴樹よりも先にその場を去った
しかし、この作品の「結末が分からない」という人は多い。
初見のときの私もそうだった。
エンディングで「想い出は遠くの日々」という曲が流れるのも、バッドエンド感を漂わせる。
(余談、ピアノでこの曲を練習している)
冷静に見てみて欲しい。
これらのハッピーエンドと見なした要素も、読み解くのが難しすぎやしないだろうか。
「貴樹の笑顔」ですら一瞬で、見落とす人もいるかもしれない。
ハッピーエンドかどうか分からない人がいるのも当然である。
これを受け止めた新海誠監督は、小説版で変更を加えた。
明里が言った「あなたはきっと大丈夫」を、貴樹にとっての救いの言葉として強調したのである。
取り憑かれたように脅迫的に努力する貴樹を、過去の明里の言葉が慰めた。
だが、内容を前向きに変えてしまうのは良いことばかりではない。
私が感じた問題点を説明する。
「雪の日、桜の木の下でのキス」を考察しなおす
「雪の日、桜の木の下でのキス」の場面に対して行った考察その1は、以下のとおり。
- 貴樹と明里のふたりは、お互いに分かれると決めていた
- 再開し会話を重ね、キスによって別れがたくなった
(同じ気持ちの変化をした) - 明里から貴樹に抱き付いたのは、貴樹が大切だと知ったから
- 貴樹の大切さを再び知った明里は、別れは伝えられなかった
- どうしても伝えたかった「きっと大丈夫」とだけ伝えた
小説版のとおり、「あなたはきっと大丈夫」を励まし・救いの要素が強い言葉とみなして、別の解釈を考えてみた。
これを考察その2とする。
キスをしたことで「貴樹の思考が明里に伝わった」。
キスのあと、貴樹の長いモノローグがある。
この内容が明里へ流れ込んだ。
明里は貴樹が抱える思いと不安を知り、「あなたきっと大丈夫」と思いながら貴樹を抱きしめた。
貴樹の考えが分かってしまったことで、別れを伝える手紙は渡せなくなった。
そして最後に、励ましと救いの言葉としての「あなたはきっと大丈夫」を伝える。
「雪の日の桜の木の下でのキス」は考察その2の方が理屈が通っている。
新海誠監督の意図に近いのは、こっちだろう。
しかし、この考察にも問題点がある。
私はこの問題点を理由に考察その2を考えないようにしていた。
問題点① 明里と貴樹が、対等でなくなってしまう
明里は「あなたきっと大丈夫」と思いながら、貴樹を抱きしめたとする。
そして、別れの言葉を伝えなかった。
これでは、明里が貴樹に同情し、憐れんで慰めているようにも見える。
明里と貴樹の関係が対等ではなくなってしまう。
言った方の明里にその意図はないとしても、精神的な成長に大きな差を感じる。
これは貴樹にとって、とても残酷な状態だと思ってしまった。
小説に書かれている貴樹のセリフも、甘え過ぎのように見えてしまう。
その一言だけが、切実に欲しかった。
小説版「秒速5センチメートル」より引用
僕が求めているのはたった一つの言葉だけなのに、なぜ、誰もそれを言ってくれないのだろう。
そういう願いがずいぶんと身勝手なものであることも分かっていたが、それを望まずにはいられなかった。
映画の貴樹の目を見ると、確かに息苦しそうではある。
それでも、私は貴樹が「明里の下へ近付きたいと努力を続ける姿勢」に共感した。
コスモナウトの花苗もそうだが、頑張る姿にはグッとくるものがある。
それを「呪い」だと否定されると、悲しい。
そして、努力を続ける人が求めているのは結果や成果である。
貴樹が救いの言葉を求める姿には共感できない。
(「頑張ったね」ぐらいは言われると嬉しいが)
明里が別れを伝えるのを諦めて「あなたはきっと大丈夫」と言ったなら、慰め・哀れみが強まってしまう。
問題点②「一途な恋」を作中で再否定することになる
映画「秒速5センチメートル」では、「大人になることの悲しさ」を表現することで「子供の頃の一途な叶わなかった恋」を美しく描いた。
しかし、現実では理想と異なる生き方を求められる。
人間は「置かれた状況に対して、それなりに幸せになるべき」なのである。
恋愛において、理想・正解の相手は存在しない。
過去に好きだった人のことをすぐに忘れる人の方が幸せになれる。
(私も大人になって分かってしまった)
明里が「あなたはきっと大丈夫」と手紙に書いたのは、「貴樹に幸せな人生を歩んで欲しかったから」だ。
「私との恋に囚われずに、前に進んでほしい」
そう願った。
映画は、手紙を映すことで「あなたはきっと大丈夫」を遠回しに描写した。
小説は、貴樹や明里などの登場人物に直接このメッセージを語らせてしまった。
これをあまりに強調してしまうと、映画で肯定した「一途な叶わなかった恋」をもう一度否定することになってしまう。
「やっぱり、明里を忘れて次の恋をするのが正しいのでは?」という主張が通ってしまうのだ。
主題に据えられたメッセージを否定してしまうと、作品の根幹が揺らいでしまう。
小説が悪いのではなくて、徹底して「悲しすぎる」映画の描写があまりに美しすぎた。
問題点③「あなたはきっと大丈夫」は別れの言葉にしか聞こえない
個人的な話をする。
私は、別れ際に女性から「カエルなら大丈夫だよ」と言われたことがある。
「まだあなたのことは好きだけれど、お別れです。私がいなくても、あなたならひとりでやっていけるよ。」という意味かと思う。
だから、私にとっては「あなたはきっと大丈夫」は明確な別れの言葉にしか聞こえない。
そこに救いはない。
どうして貴樹が「あなたはきっと大丈夫」と言われたがっているのか、全くわからない。
貴樹に手紙を渡せず「あなたはきっと大丈夫」と言った後の明里は、大人の表情をしている。
この作品で大人の表情をしているのは「別れを受け入れようとしている」ときだ。
小説で「救い・慰め」とされる言葉を伝えた明里も、別れを覚悟していた。
内容を整理する。
「あなたはきっと大丈夫」を完全な「励まし・救い」とする問題点は以下のとおり。
- 明里が貴樹へ同情していることになり、対等でなくなる
- 「一途な恋の美しさ」を、もう1度否定することになる
- 正直、別れの言葉にしか聞こえない(私だけか…)
「映画を観た人の解釈」と「新海誠監督の葛藤」
新海誠監督は、以下の理由で小説版を執筆したようだ。
意図と逆に「ひたすら悲しかった」「ショックで座席を立てなかった」という感想がすごく多く、その反省から第3話のラストを補完するかたちで『小説・秒速5センチメートル』 を書いた。
Wikipedia「秒速5センチメートル」より
新海誠監督が言う「意図に反して」という言葉について、私はずっと引っかかっていた。
「映画はどう観ても悲しすぎるでしょ!」が私の意見だからだ。
この言葉は、「いくつかの救いを示す描写が思ったよりも観ている人に伝わらなかった」という意味だったのだろう。
反省した新海誠監督は、「あなたはきっと大丈夫」の意味を救い・慰めとして、はっきりと小説に書いた。
これは書き過ぎだったと思う。
私は貴樹が「救い・慰めを求めることをストレートに言葉にし過ぎ」と感じた。
新海誠監督も本来はここまで明確には書きたくなかったんじゃないかと思ってしまった。
表現を全て拾うことのできない視聴者に対しどれくらい分かりやすくするべきか、「新海誠監督の葛藤」を感じたような気がする。
「秒速5センチメートル」は製作者が悩むほど、解釈の幅があるということだ。
「叶わない一途な恋を悲しむ」か、「忘れて前に進む」のか。
いくつかの考察があり、そのどれもが間違いとは言い切れない。
これが、「秒速5センチメートル」が長く語り継がれている理由のひとつかもしれない。
新海誠監督のTwitter(x)に掲載されていた、冬の岩船駅から満開の桜が見える景色には驚いた。
『秒速5センチメートル』公開から、今日で17年目です。画像は、当時使わなかったポスターの別案。桜の季節まで、今年ももうすぐですね。 pic.twitter.com/2jR5XUwiZO
— 新海誠 (@shinkaimakoto) March 3, 2024
一緒に桜を再び見ることが叶わなかった貴樹と明里。
「この雪が桜であればいいのに」
「また春がやってきてくれればいいのに」
ふたりはそう願っていた。
かりそめの景色であっても、貴樹と明里がまた一緒に桜を見られたとしたら、とても嬉しいことだ。
この記事は以上です!
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